『おおかみこどもの雨と雪』を観た。

スタッフロールとともに流れるアン・サリーさんの歌声に浸りながら、
あーいい映画だったなぁと反芻しつつ満足してにこやかに映画館を出る、
予定だったのですが。

どーしてもひっかかる、自分の中で納得できていない点が1カ所ありました。
それは、

 花は、韮崎のおじいちゃんの前でなぜに笑ったのか?

気にいらん、なぜ笑う!?と韮崎の菅原文太おじいちゃんに咎められてるのに
ふふふ、ははは♪と笑う花。
あそこだけどうしても違和感があって、あれに至る流れでどっか文脈を見落とし
ちゃったかなぁ?
と思うとなんか気になっちゃって気になっちゃって、

で、
結局2回観ることになってしまいました。
(´・ω・`)ぬぅ

そして、やっぱり見落としてました。
見落としてたというより、最初の10分ぐらいの花と彼の会話がすっぽり
記憶から抜け落ちてました。2回目観たら、ああ、こんな話をしてたねぇって
聞いた覚えがうっすらはあったんだけど。
この前提がなけりゃ花はちょっと、いやかなり“おかしな人”、と思われかねない。


□「笑えばなんとかなる」という父親の教えに救われた

彼と出会った花が名前の由来を聞かれたときに、その話が出てきました。
花が生まれたとき、自然に咲いたコスモスを見て父が思いついた名だと。
父は、悲しいこと、辛いことがあったときにとりあえず笑いなさい、
そうすればどうにかなる、と言っていたこと。
だからそんな父が亡くなった時に笑わなきゃと思い、親戚から不謹慎だと
言われたこと。
やっぱり不謹慎だったかなぁとつぶやく花に、彼がきっぱりと
「不謹慎じゃない」
と言い、それを聞いて花が「よかった」と応える。

自分に命と、花という名前を授けてくれた愛する父の教えを大切に
心に刻んで、そうありたいと強く思っている花の姿勢が、冒頭にさらっと
語られていたのでした。
西原理恵子描く『ぼくんち』のかな子姉ちゃんが言う
「泣いたら誰か助けてくれるんか、笑わんかい」
を思い出しました。
FNS27時間テレビでBEGINが明石家さんまさんを歌った
「笑顔のまんま」もそんな歌詞でした。
これは実際にやるのはなかなか難しいけれど、生きていく上で無敵で最高の
武器なんでしょう、きっと。
おそらくなんらかの理由で母親はおらず、父娘の2人で生きてきただろう
その父が亡くなった場で笑うなんてのは、並大抵の決意でできることじゃない。
でも父の遺言ともいうべきことを必死に守ることが、父への弔いだと感じたの
かもしれません。
何かあったら、何かあったときこそ、笑いなさい。

そんな告白を聞いて即座に、きっぱりと「不謹慎じゃない」と言い切った
彼に対し、花は自分とともにその教えを授けてくれた父の存在までも
受け入れてもらえたと、安心とともに彼に対する信頼も大きくなったのでは。

だから雪降る寒空の中、喫茶店の前で人通りがなくなるまで待たされても
彼に対してにっこりと、笑顔を上げて返したんでしょう。
それは、花がもともとそういう性格で意識せずとも実践できた、ということでは
けっしてないはず。
笑顔を上げるまでのほんの少しの間が彼女の心の動きを物語っているし、
彼を失った失意の中で花が免許証の中の彼に「がんばる」と笑顔で語りかける
シーンは、それでも愛する人との約束を守るんだと心に誓って、必死に
立ち上がろうとする花の弱さと強さを、短いですがきちんと描いています。
ま、そういう意味では花は、強い。

それにしても、彼を失うシーンは惨かったですね。。
おとぎ話のような本作において「オオカミオトコ」は一種のファンタジーですが、
それは“通常”では受け入れがたい存在のメタファーであり、“通常”というのは
そのときの状況によって変わります。
小さなコミュニティにおいては違うコミュニティから来た「よそ者」であり、
それは肌の色の異なる「外国人」であったり、「同和問題」であったり、
生まれてきた子供には何の罪もないのに、戦後間もなく進駐軍兵士との間に
できた子が褐色の肌だったというだけで、ダウン症であったというだけで、
“通常ではない”とされて奇異の目で見られて疎外され、迫害を受けてしまう。
昔、鴻上尚史さんが『恋愛王』というエッセイで、映画『ザ・フライ』を評して
愛する人が蠅男という奇形になっても、貴方は変わらず愛し続けられるか?」
という究極の愛を迫られる映画だと語っていたのを思い出しました。
だからオオカミ姿の彼を花が受け入れ結ばれるシーン、あれはどうしても
細田監督が描きたかった、意味あるシーンだったんだと思います。
観る側にとってはかなり強烈なシーンでしたけどね。

花はある覚悟をもって“オオカミオトコ”の彼を受け入れ、でもそれは例えば
死んでしまえば人としてではなく、ゴミ袋に入れられてゴミ収集車で運ばれる、
“モノ”として扱われ葬り去られる存在なのだということを衝撃的に
嫌というほど思い知らされ叩きのめされる、あのシーン。
ひとたび見つかってしまえば、“通常”のルールから逃れることができない。
ゴミ処理車を前にして、なす術無く雨の中崩れ落ちるしかない花。

オオカミの姿を見られたら抗えない“通常”のルールによって排除されるかも
しれない、だから自然分娩という険しい道を選ぶ訳ですが、、
映画『玄牝(げんぴん)』を見てもなお、まして専門家の立ち会いなしに
自然分娩で出産することが、どのくらい危険で勇気のいることかと思う。
さらに花ひとりで子育てする中で、雪がシリカゲルを口にして嘔吐する
シーン。あれもシビアでせつない。小児科に連れていけばいいのか、
動物病院がいいのか、そもそもオオカミであることがバレたら処分されるかも
しれない、でも今苦しんでいる雪を助けなければ死んでしまうかもしれない。
・・・本来なら大変な場面、でも観た2回とも笑いが起きていて、実際
おいらも笑ってしまいましたけど、でもこれ、本当なら母親にとって
シャレにならない状況ですよね。

そんな状況をかいくぐってくると、親の願いはただひとつ、
「とにかく元気に生きてちょうだい」ということしかなくなるでしょう。
おいらの知り合いも子供の頃小児ぜんそくがひどく、しょっちゅう病院通いしてて
後に親御さんから
「贅沢は言わない、とにかくこの子が元気で生きていてくれればいい」
とただただそれだけを願っていた、と聞いたときは感謝で言葉がなかったよ、、
と語っていました。
だから花に対して「子供のしつけがなってない」なんて感想は、ちと違うんじゃないか。
ただ、2人の子供が無事に大きく育つことを願い、田舎で苦労しながらも
笑顔で乗り切ろうとがんばった花。
その花を見て、捨て置けなくなったのが韮沢のおじいちゃんで、いえば
アルプスの少女ハイジ』のアルムおんじのような、気難しく頑固そうな
韮沢の文太おじいちゃんがどうして花を捨て置けなくなったのか。
最初に会った際に
「なぜ笑っておる?気にいらん!」
笑ってばかりじゃ失敗するぞと言いながら、健気にがんばる花のその笑顔に
惹きつけられたから、でしょう?

韮崎の文太おじいちゃんにおっかなくレクチャーされながら、やがて花は
2つのことに気づいた。
ひとつは、どうして畑を大きく耕さないといけないかということ。
もうひとつは、父が教えてくれた「つらいときでも笑えばなんとかなる」が
韮崎の文太おじいちゃんにも通じたということ。
だから、「気にいらん!なぜ笑っておる!?」と咎められながら、父のいう
ことはやっぱり正しかった、だから韮崎のおじいちゃんもそういいながら
助けてくれたんだ。そのことが嬉しくて感謝の気持ちをこめつつ、
花は笑ったのでしょう。
そう解釈しました。

雨が親元を離れ独り立ちしようと葛藤しているとき、花の顔から笑顔が
消えました。
雨が得体の知れないように思えてくるおそれと、理解しきれないとまどいと、
親としてのさびしさと。
でも親としてまだ何もしてあげてないと感じていたことが、実は親離れまで
無事に見守り育てたこと、それが親としてしてあげられることすべてだと
気づいたのではないでしょうか。
それに気づいたとき、彼との約束を無事に果たすことができたんだと納得して
「しっかり生きて」と伝えられたときにやっと、花は笑顔になれた。

笑顔になれば、どうにかなる。
笑顔を続けていれば、いつか本当に笑える。

それを糧に、夢のような激動の13年を乗り越えた、花のお話でした。
そしてずっとそばにいて見守り続ける、母親の強さを描いた作品でした。


□おおかみかこどもか、雨と雪の選ぶ2つの道

自分はどこから来て、どこに向かえばよいのか。
人間であり、オオカミである雪と雨にとって、自分のアイデンティティーについて
成長する過程の中で選択を求められる、というのもこの作品のテーマの1つです。
父親の彼はどのように折り合いをつけてきたのか。
そしてそもそも折り合いのつくものなのか。
これは日本以外にも国籍を持つ多重国籍者が22歳になるまでに国籍の選択を
迫られる、というのにも似ているかもしれません。

にんげんとオオカミの成長を考慮して、10〜12歳という年齢での子供から
大人への葛藤の設定は、とっても絶妙に思えました。
早すぎるようにも思えるし、ふさわしくも思える。
そして、それ以前の段階で、その子のもとから持っている性質と向き不向きが
あるようにも思えます。
雪は小学校入学の際にオオカミにならないおまじない「おみやげ3つ、たこ3つ」
を面白がって積極的に唱えていました。
でも雨にそのようなシーンはありませんでした。

自分に向いている、好きな道になんの障害もなく進められたらいいけれど、
向いていない、嫌いな部分が邪魔して足を引っ張ったらどう折り合いをつけるか。
雪にとっては宝物である、アオダイショウや小動物の骨や干物には
“普通の女の子はこんなもの欲しがらないんだ!”と気付いて捨て去ることができても、
自分では気づかなかった“ニオイ”を指摘されたら、どうしてよいかわからなく
なってしまった。
女の子が成長する過程で“ニオイ”を異性から指摘される、というとちょっと
微妙すぎる感じもしますが、だからこそ自分をコントロールできずに葛藤し
苦しんだ、というのも絶妙な設定でした。

雪にとって、母親に捨てられ同じようにもがき苦しみながらも隠しておきたい
部分をさらけ出してニッと笑ってみせた草平は、オオカミオトコの彼にとっての
花と実は同じような存在だったかもしれません。
笑って受け入れようとする花だから、彼も正体を告白することができたのかも。
草平にオオカミが好きか尋ねたときに言った花の「私と一緒」というひと言が、
なんとなくつながっているようにも思えます。
雨もそんな相手に巡り会えていたら、いいな。

エンディングに流れる「おかあさんの唄」は、細田監督が作詞をしていて、
この映画を端的にまとめた内容になっています。
映画を見終わった後にこの歌を聴いたら、いろんな場面が思い起こされます。

「もう1回、大丈夫、してぇ」なんて甘えてたくせに、独りで大きくなった
顔しやがって。
なーんて雨のことを思ったりしましたけど、うちの親もそんな風に思って
たんだろうなぁ。
なんてね、ちょっと思ったり。


□風景がとにかく綺麗!

最初に観たとき、実写との合成なのかなって思ったくらい。
とにかく風景が綺麗でリアルで、動きもナチュラルで、これだけでも一見の
価値があると思います。
で、あまりに背景がキレイ過ぎて、キャラクター描写がちょっとチープに
見え過ぎないこともなかった、かな。
専属のスタイリストをつけて衣装を検討したらしいですけど、もう少し
キャラそのものの表現に力を入れてもよかったかも。
でもまあ、難癖つけるとすればそのくらい。

とってもいい作品でした。
とくに最初の10分間を忘れないように集中して観ることをおすすめします!




PS.
 彼がオオカミ姿のまま、花を押し倒す(?)シーンについてレビュー等で
 「獣姦」という言葉でばっさり切り捨てられてるのを見かけます。
 でもそれは読み手に対するインパクトを狙った少々乱暴で安易な、
 表層のみを見た表現のように感じます。
 おいらなんかあれですよ、相手がオオカミさんなんだから花ちゃん、
 うつぶせになってあげないとねぇと親切心で言っていたら、一緒に観に行った
 相方から呆れられましたもん。
 アンタの方が上っ面しか見てないよ、だって。とほほ。
 
 
PS.その2
 教室で草平に対して雪が正体を告白するシーンで、わざわざ窓を開けて
 風を受け、カーテン越しにオオカミに変身してみせてたけど、やっぱり
 オオカミになると獣臭くなるからアレ、エチケットとして窓開けたんじゃね?
 と言ったら、また相方から呆れられました。
 しょーもない見方すぎるそうです。とほほ。